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日本内分泌学会の後輩会員へ

最終更新日:2018年9月6日

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大阪大学医学部 学友会理事長・大阪大学名誉教授
大阪府立母子保健総合医療センター名誉總長
松本 圭史

松本 圭史

 私は大阪大学医学部昭和28年(1953)の卒業であるから、現役の内分泌学会会員の諸先生からみると過去の存在であり、有益な意見を述べられそうではない。しかし、卒業後直ちに病理学教室に入ってその教授もつとめた私は、個人としては内分泌研究(主にステロイド生化学と性ホルモンの研究)を主として行い、病理学会よりもむしろ内分泌学会に愛着をもっていた。したがって、そのことによって生じた利点を述べれば会員に参考になるかもしれないと考えた。

 私は阪大医学部第二病理に卒業後直ちに入室したが、当教室はその頃は内分泌臓器(特に性腺、副腎皮質)の研究を主に行なっていた。当時の一般常識によれば、病理学教室は各臓器を顕微鏡を用いて形態学的に研究する所とされていたので、第二病理教室も性腺と副腎の研究を形態学的に行なっていた。また、所謂ステロイド染色と稱された方法を新しい組織化学的方法として採用していたが、当時大いに発展してきたステロイド生化学によると、本法は脂肪を主に染色しているにすぎないとのことであった。当時はステロイド生化学の発展期で、主なステロイドホルモンの構造、生合成経路、定量法などが明らかにされてきた。ステロイドホルモン産生臓器に多量に非特異的に存在する脂肪を染色していても有意義なことは解明されないので、大学院生であった私はステロイド生化学を性腺、副腎の研究にとり入れ、病理教室で生化学研究をはじめた。当時としては非常識で型破りのことで、私は大変な変り者とされて多くの病理学の先輩から忠告をうけた。しかし、私自身は最も有利な方法で性腺、副腎の研究をしているのであるから正当なことで変ったことではないと考えていた。私は議論は好むが喧嘩はしない、しかし、その人の意見には簡単には従わない、という特性をもっていたので、病理教室で首にならずに生化学的研究をずっとつづけることができた。20年後の1980年頃になると、病理が病因を形態学ばかりで追究するのは不合理ではないかと考えられる時代になり、私は先見性があったとの評価をうけるようになった。幼若期性腺における特異的な性ホルモンとその生合成経路を発見し、シオノギ研と共同で男性ホルモン依存性移植性マウス乳癌(シオノギ癌)を確立した。シオノギ癌は唯一の男性ホルモン依存性癌のモデルとして世界中の内分泌研究者に1965~1990にわたって使用された。我々はシオノギ癌のアンドロゲンによる増殖促進は、アンドロゲンがシオノギ癌のアンドロゲン受容体に結合してFGF様増殖因子(我々がクローニングしたその因子は後にFGF-8と命名された)を分泌させ、FGF-8がその癌のFGF受容体-Iに結合することによって誘導されることも明らかにした。性ホルモン依存性癌増殖の分子機構が解明された最初のものとなった。之等の成果は、Endocrinology, J.Clin. Endocr. Metab., J.Steroid Biochem., Cancer Res., J.Natl. Cancer Inst., などのInternational Journalsに約200の論文として発表されているので、研究成果の方は"まあまあ"と考えられるが、病理教室で内分泌研究を行ったことは、私にとって更に大きい長所となった。

 病理の研究者であるが内分泌学会で活躍させていただき、その他癌学会、生化学会にも顔を出したので、著名な内科、産婦人科、泌尿器科、小児科、外科、生化学、病理、癌研究の先生方と巾広く親密にしていただけた。また、共同研究もさせていただくことができた。日本をはじめ東洋では、乳癌、子宮内膜癌、前立腺癌などの性ホルモン依存性癌の発生率が欧米の1/5~1/10と低いことが知られていたので、1970~1985にかけて性ホルモン依存性癌の国際研究が施行された。日本側研究者としては、臨床家、生化学者、PhDなどが参加したが、性ホルモン、機能と形態が分り、臨床も理解できるということで私がリーダーに選出され、広く国際的に活躍でき、出版もすることができた。また、癌のホルモン依存性増殖というテーマは癌研究としてはマイナーの分野であったが、無視することはできなかった。したがって、文部省癌研究の約100の研究班の中で1~2班は常にホルモン関連の研究班で、私は20年にわたってずっと研究費をいただくこともできた。

 私は大阪大学医学部が大阪市の中心部の中之島から現在地の吹田へ移転した時期に1887~1991にわたって医学部長をつとめた。新学舎を作って移転するのであるから、利害が分れてもめることが多い。大喧嘩には到らないでなんとなくまとめるのが得意と考えられていた私が移転時の責任者として適任であると考えられた。長年の内分泌研究を行ったことで調節することが専門とも考えられた。一般的に病理学者は柔軟性に乏しく、病理形態学を特別に重要視する傾向を有する。病理に籍を置くが内分泌研究者であった私は、基礎、臨床の各分野の実力・実績と必要性を比較的公平に評価できたので阪大医学部の運営を比較的スムースに実行できたと考えている。私は大阪府母子保健総合医療センター總長も5年半つとめたが、臨床全科と研究所を含む同センターの運営も同様の理由で公平にスムースに実行できた。当センター總長は産婦人科か小児科の先生がつとめてこられたが、病理・内分泌の私は産婦人科にも小児科にも片寄っていないことが明らかであった。さらに、病理にさえも片寄っていないと考えられていたので、センターの多くの職員が最初から私はきっと公平に運営すると感じておられたようである。私はセンターの各臨床科と研究所の活動に口出しできる程の知識はなかったが、長年の内分泌・病理研究によって多くの分野の活動の大凡は理解でき公平な評価もできたので、管理者として適任であったと考えられる。平凡な私が秀才で満ちている大学医学部で以上のようにやってこられたのは、内分泌学会に属する内分泌研究者であったためであると大いに感謝している。

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